日和見日記

pig-pearl 一行紹介 2012年4月に武蔵野美術大学通信教育課程に入学、2018年3月卒業しました。日常生活のあれこれを記述しています。

思い出

気に入っているわけでもないが「とと姉ちゃん」を時々見ている。時々でもそれなりに話はわかる。というか、わかりやすい話でもあるわけで。
今朝は祝言の場面であった。
昭和の祝言というのに興味があった。
私は昭和30年代前半の生まれであるし、千葉県の片田舎で育ったので、今朝の祝言のやり方に見覚えがある。
自宅の座敷を二間続きで使い、親戚や近所の人を招いて三三九度を交わす。
小学生の頃、親戚の家で祝言があり、私は三三九度の杯にお酒を注ぐ役割をしたことがある。親戚のお姉さんの水色のワンピースを借りて着て行ったことも覚えている。三三九度は新郎新婦それぞれに二人の子どもがお酒を注いだのだが、もう一人は誰だったのだろう? そこが記憶にない。
なんか男の子だったような気もする。
私は花嫁側の親戚としてだったから、もう一人は新郎側の親戚の子だったのだろう。
まずは花嫁の家で祝言の儀式と宴会があり、その後嫁ぎ先で宴会があった…と思われる。
子どもの役割はそこで終わりなので、宴席に並んだわけではない。お役目が済んだらなにかご馳走になって家に帰ったような気がする。
あの後、両人と親戚一同は新郎の家に行き、また宴会だったのだろう。


母の祝言の話はあまり聞いたことがないが、祖母の祝言の話は聞いたことがある。高島田を結い、三日三晩祝言の宴会があって、ヘトヘトになったと祖母は言っていた。大正元年生まれの祖母の時代は、高島田はもちろん地毛である。祖母は白無垢だったが、母は黒留め袖で高島田は鬘だった。時代によっていろいろ変化する。
祖母の白無垢は、その後生まれたたくさんの子どもの寝具や着る物に姿を変え、残ってはいなかった。しかしお色直しで着た紫の留め袖は残っていた。何故それだけ残ったのか、祖母は教えてくれなかったが、何か理由はあったはずである。今となっては知るすべもない。


私が出席した親戚の祝言だが、その後そのお嫁さんは3人目のお子さんのお産の時に亡くなられた。
昔も今も出産は女性にとって大変なできごとである。