日和見日記

pig-pearl 一行紹介 2012年4月に武蔵野美術大学通信教育課程に入学、2018年3月卒業しました。日常生活のあれこれを記述しています。

まもなく4年目に入る

時々、課題のためだけに勉強しているような気分になる。
課題のため…それはそうなのだが、何のためにこの課題を勉強しているのか、わからなくなるというか、忘れてしまうことがある。
それはつまり、そもそもどうして大学で勉強したいと思ったのか、ということに繋がるのだけれど、日々の課題におわれているとついうっかり忘れてしまいそうになるのだ。


通信での勉強は決して楽ではない。授業で直接教えてもらえたらと何度も感じた。
でも授業で教えてもらうとその場ではわかった気になるけれど忘れるのも早い。自分でコツコツ勉強したことはそれなりに覚えているものらしいと、最近気付いた。
私の勉強をずっと横で見てきた夫は、俺にはとても通信教育は無理だ、と言う。かと思えば、俺もやってみようかなと言い出す。
その夫の言葉が通信教育というものをよく表していると思う。
やろうと思えば誰にでもできるが、続けるのは根気がいるということで、もし通信教育になにか才能が必要だとするならば、勉強を続けられる根気であろう。その学問への情熱がその根気を支える。

私が通信教育を受けようと決めたのは、それほど深い理由はない。長男の中学受験の勉強に付き合っているときに勉強って案外楽しいと思ったことがきっかけである。もう一度勉強する機会があるなら、通信教育で大学へと漠然と考え、それから10年以上経ってやっと実現した。
では、何故ムサビだったのか。
いくつか理由はあるのだけれど、一番の理由は「文様」の勉強がしたかったということ。だから最初に「数学」を履修して幾何学を…と思ったのに、あえなく挫折した。もうしょうがない、別のアプローチでとなった。壁にぶつかるたびに軌道修正しつつ、現在に至っている。
入学したとき卒論は「文様」についてと決めていたのに、3年経ってみればまったく考えは変わってしまった。
もちろん今でも文様についての興味はあるし、勉強はポツポツとしている。
しかし、様々な科目、課題をやっていくうちに、文様以外にも、あるいは文様に関わっているいくつかの事象にも興味が湧いてきた。
美術とは、自分で考えていたよりもずっと懐の深い、様々な事象に関係することなのだと、遅まきながら気付いた。そして、美術に限らず、ありとあらゆる勉強は、様々なことに結びついている。そのことを教えてくれたのが、この三年間のたくさんの課題たちである。

デザインについて、テレビで見た二人の人間の忘れられない言葉がある。
一つは、医学博士でもある、プロダクトデザイナー川崎和男さんの言葉。
障害を持った人が、かっこいいデザインの医療機器(器具)を使う(付ける)ことにより、かっこいい人間になれる、そういう自信の持てるデザインを目指すのだ、と言うような言葉だったと思う。
もう一つは女優の菊川怜さんの言葉。
デザインが技術を引き上げる。…私はこの言葉で菊川さんを見直したほどである。
あれは建築デザインの話題だったが、実現不可能と思われるデザインを提示されたとき、それをなんとか実現させようとして技術が発展していくのだ、という概要だったと記憶している。
共にデザインの持つ可能性を私に強く意識させた言葉である。
私は以前にある技術を修得している。その技術で仕事をしていたころ、あまり一般的ではない、奇妙とも言えるデザインに遭遇したことが何度もあった。どうやったらそれをデザインした人の意図に応えられるか、四苦八苦した経験がある。その時に、なんでこんな妙ちきりんなデザインなんか考えたんだ?!と思う反面、それを形に出来ることを誇りにも思ったことを思い出した。
デザイナーになりたいと思ったことはないけれど、デザインの課題の時にはその言葉と自身の経験を反芻している。
発注者の要求、制作コスト、制作日数、意外性、説得力、完成度、様々な制約や要求があるなかで、デザイナーは何を最優先してデザインを創造、決定するのか、とても興味がある。そして、また改めて勉強とは何だろうと考える。


「文様」はデザインの一種であり、やはり興味はつきない。数年先の卒業までに、私は何を研究したいのか、何を卒論に選ぶのか、まだ迷っているが、まずその前にすべき課題が山積している。一つ一つ課題をクリアしながら、ゆっくり考えていこう。歩みは遅くても振り返ったときに前進できたとわかるようにしていきたい。


というようなことをしっかりと書けていたならば、一年次に履修した「文章表現2 課題1」で選んだ「私が本学で学ぼうとする意味」も、もうちょっと良い評価がもらえたかもしれないな〜と思いました(笑)。
思っただけだから、本当にそうなったかは不明。